「責任ある積極財政」とは何か
What Is 'Responsible Expansionary Fiscal Policy'?高市早苗首相が経済政策の基本理念として掲げるのが「責任ある積極財政」である。これは従来の「緊縮か積極か」という二項対立を超え、財政の持続可能性に配慮しながら、戦略的に財政出動を行うという立場だ。
高市首相は2025年11月の総合経済対策発表時に「強い経済を構築し、雇用と所得を増やし、消費マインドを改善し、事業収益が上がり、税率を上げずとも税収が自然増に向かう好循環を作る」と述べている。
この理念の核心は、財政出動を単なるバラマキではなく「投資」として位置づける点にある。高市内閣は経済対策の三本柱として、①生活の安全保障・物価高への対応(約8.9兆円)、②危機管理投資・成長投資による強い経済の実現(6.4兆円)、③防衛力と外交力の強化を掲げ、「給付から投資へ」の転換を打ち出した。
安倍内閣の「アベノミクス」が金融政策(異次元緩和)を主軸としたのに対し、高市内閣は財政政策による戦略的投資を前面に据えている。日銀が利上げ局面に入った2026年において、金融緩和に頼れない以上、財政政策の役割が大きくなるのは必然でもある。
122.3兆円の予算構造 — 過去最大の中身
The 122.3 Trillion Yen Budget — Breaking Down a Record2026年度(令和8年度)一般会計予算案は総額122兆3,092億円と過去最大を更新した。歳出の主な内訳を見ると、この巨額予算の構造が浮かび上がる。
一般歳出は70.2兆円で前年度比2.0兆円増。その最大項目は社会保障関係費で39兆559億円(前年度比+約7,600億円)、次いで防衛関係費が9兆353億円で初めて9兆円を突破した。地方交付税交付金は21.8兆円、国債費は31.3兆円(同+3.1兆円)と、全歳出の約4分の1を占める規模に膨らんでいる。
歳入面では、税収が83.7兆円と過去最高を見込む。新規国債発行額は29.6兆円で、公債依存度は24.2%。27年ぶりに30%を下回った前年度からさらに低下した。
予算規模が過去最大となった主因は、金利上昇に伴う国債費の増加(+3.1兆円)と、税収増に連動する地方交付税交付金の増加である。大和総研の神田慶司氏は「積極財政志向が予算規模を膨らませたというより、金利と税収の増加が主因」と分析しており、「積極財政」の実態は想像よりも抑制的との見方もある。
28年ぶりのPB黒字化 — そのカラクリ
First PB Surplus in 28 Years — The Mechanism Behind It2026年度予算案の最大のサプライズは、一般会計ベースのプライマリーバランス(基礎的財政収支)が1兆3,429億円の黒字に転じたことだ。これは1998年度以来28年ぶりの黒字化である。
プライマリーバランスとは、歳入(税収等)から歳出(国債費を除く)を差し引いた収支のことで、その年度の政策的経費を借金に頼らず賄えているかを示す財政健全性の指標だ。
慶應義塾大学の土居丈朗教授は「積極財政を掲げながらPBが黒字化するのは一見矛盾するが、カラクリがある」と指摘する。最大の要因は税収の大幅増だ。名目GDPの拡大、物価上昇、賃上げによる所得税・消費税の増収が予算の黒字化を押し上げた。
しかし注意すべき点がある。第一に、2025年度補正予算18.3兆円を加えると、実質的な財政収支は大幅な赤字である。補正予算は当初予算とは別枠で計上されるため、当初予算だけを見てPB黒字化を達成したと言うのは「見かけ上の黒字」との批判がある。第二に、高市首相自身がPBの単年度黒字化目標を取り下げ、数年単位でバランスを確認する方向に見直すと表明している。
日経新聞の社説は「責任の視点欠く過去最大の予算案」と題し、巨額補正予算との合計で見るべきだと指摘。一方、第一生命経済研究所の星野卓也氏は「構造的に税収が増加しているのは事実であり、PB黒字化には一定の意味がある」と評価する。
防衛費9兆円超 — GDP比2%達成とその先
Defense Spending Over 9 Trillion Yen — Achieving 2% of GDP2026年度の防衛関係費は9兆353億円で、当初予算として初めて9兆円を超えた。2023年度の6.8兆円からわずか3年で約2.2兆円(32%)の増加であり、日本の安全保障政策の大転換を数字が物語っている。
2022年に閣議決定された「防衛力整備計画」は、2023〜2027年度の5年間で総額43兆円を防衛費に充てると定めた。高市内閣はこの計画を前倒しし、2025年度中にGDP比2%を達成する方針を表明している。
野村證券の岡崎康平氏は「高市政権のもとでは、次期防衛力整備計画でGDP比3%も視野に入る」と分析する。NATOがGDP比2%を最低基準と位置づける中、トランプ政権が同盟国に5%を求める姿勢を見せており、日本の防衛費はさらなる上昇圧力に直面している。
防衛費の内訳を見ると、半分以上が過去に契約した装備品の分割払い(歳出化経費)に充てられている。東京新聞は「9兆円のうち半分以上が兵器購入ローンの返済」と報じており、新規の戦力整備に使える自由度は限定的だ。
防衛費増額の財源として、所得税増税が2027年1月から開始が決定済みだが、法人税・たばこ税と合わせても追加財源は1兆円強にとどまる。防衛費をGDP比2%水準で恒久的に維持するには、さらなる財源確保が不可避であり、高市内閣の財政運営にとって最大の課題の一つだ。
17の戦略分野と6.4兆円の成長投資
17 Strategic Sectors & 6.4 Trillion Yen in Growth Investment高市内閣の経済政策の目玉が、「日本成長戦略本部」の立ち上げと17の戦略分野への集中投資だ。2025年11月に設置された同本部は、AIや半導体など日本の「稼ぐ力」を左右する分野を特定し、官民連携で投資を加速させる司令塔として機能する。
17の戦略分野は以下の通りだ。①半導体、②AI(人工知能)、③量子コンピューティング、④バイオテクノロジー、⑤宇宙、⑥海洋、⑦重要鉱物、⑧エネルギー、⑨次世代通信、⑩ロボティクス、⑪サイバーセキュリティ、⑫フュージョンエネルギー(核融合)、⑬防災技術、⑭食料・農業技術、⑮コンテンツ・アニメ、⑯観光、⑰造船。
2025年度補正予算では、これらの分野に6.4兆円の予算措置が講じられた。造船業の再生・強化や宇宙戦略基金、AI研究開発などにそれぞれ1,000億〜2,000億円規模が配分されている。
2026年3月からは、各分野の「官民投資ロードマップ」の策定が始まっており、目標・道筋・政策手段を明確にした上で、夏の「成長戦略」にまとめられる予定だ。日経新聞の経営者調査では8割が期待を示し、特にアニメ・コンテンツ分野を「日本の強み」として評価する声が断トツだった。
東洋経済は「17分野すべてに薄く広く投資するのではなく、優先順位を明確にすべき」と指摘。また、「補助金漬け」になるリスクや、政府が正しく成長産業を見極められるか(目利き力)の問題も提起されている。
教育無償化と暮らしの安全保障
Education & Living Cost Relief — The Household Impact高市内閣の積極財政は、成長投資だけでなく家計への直接的な負担軽減策も柱としている。2026年4月から相次いで施行された施策を整理する。
教育無償化は高市内閣の看板政策の一つだ。2026年4月から私立高校授業料の所得制限を撤廃し、約300万人の高校生を対象とした実質無償化がスタートした。同時に公立小学校の給食費無償化も始まり、子育て世帯の負担が大幅に軽減されている。さらに、3歳未満の未就園児が保育所を利用できる「こども誰でも通園制度」も4月1日から本格開始した。
ガソリン暫定税率の廃止も大きなインパクトを持つ。暫定税率(ガソリン1リットルあたり約25.1円)は2025年12月31日に廃止され、1世帯あたり年間約1万2,000円の負担軽減が見込まれている。軽油引取税の暫定税率も2026年4月1日に廃止された。
これらの施策に加え、物価高対策としてガソリン補助金、電気・ガス代の負担軽減措置なども継続されており、補正予算全体で約8.9兆円が「生活の安全保障」に充てられている。
教育無償化の恒久財源として子ども・子育て支援金の徴収が2026年4月から開始された。健康保険料に上乗せする形で1人あたり月数百円程度が徴収される仕組みだが、「実質的な増税」との批判も根強い。積極財政の恩恵が、別の形での負担増と相殺されないか、注視が必要だ。
金利上昇と国債費 — 積極財政の代償
Rising Rates & Debt Costs — The Price of Expansion高市内閣の積極財政が直面する最大のリスクが、金利上昇に伴う国債費の膨張だ。2026年度予算の国債費は31.3兆円で過去最大を記録し、そのうち利払費は13兆円超に達している。
2026年1月には長期金利(10年国債利回り)が2.34%に上昇し、30年国債利回りは3.87%と1999年の発行開始以来の最高水準を記録した。日銀の政策金利引き上げ(2026年1月に0.75%)に加え、市場が高市政権の積極財政に対する財政規律への懸念を織り込んだ結果だ。
財務省の試算では、金利が想定より1%上昇し、その水準が続いた場合、利払費は2034年度には34.4兆円に達する。これは2024年度の3倍以上であり、社会保障費に匹敵する規模だ。
JBpressの土田陽介氏は、イギリスの「トラスショック」を引き合いに出し、「市場との対話を軽視した財政拡張は、金利急騰という形で市場の制裁を受ける」と警鐘を鳴らす。2022年にリズ・トラス英首相が大規模減税を発表した際、英国債が暴落し、トラス氏はわずか45日で辞任に追い込まれた。
ただし、日本とイギリスでは事情が異なる。日本国債の約9割は国内投資家が保有しており、急激な売り浴びせが起きにくい構造がある。また、日銀が国債の最大の保有者(約5割)であるため、金利の急騰を一定程度抑制する力がある。しかし、日銀が正常化(利上げ・量的引き締め)を進める中、この「安全弁」がいつまで機能するかは不透明だ。
格付け・市場の評価と財政の持続可能性
Ratings, Markets & Fiscal Sustainability高市内閣の積極財政は、格付け機関と金融市場からどう評価されているのか。
日本の国債格付けは、S&PがA+(ポジティブ)、ムーディーズがA1(安定的)、フィッチがA(安定的)で、主要先進国(G7)の中ではイタリアに次いで低い水準にある。野村総合研究所の木内登英氏は「参院選後に積極財政傾向が強まれば、格下げリスクが高まる」と指摘しており、2026年7月の参議院選挙が財政政策の転換点になる可能性がある。
日本の政府債務残高は対GDP比で約260%と、先進国中で突出して高い。それでも国債暴落が起きていないのは、①経常黒字国であること、②国内投資家の保有比率が高いこと、③日銀の大量保有、という3つの「防波堤」があるためだ。
しかし、金融市場は警戒を強めている。2026年に入り、長期金利の上昇ペースが加速しているのは、市場が積極財政と日銀の正常化の「二重の圧力」を意識しているためだ。野村アセットマネジメントは「構造的な金利上昇トレンドに入った」と分析し、10年国債利回りの3%到達も視野に入ると指摘している。
高市首相が掲げる「強い経済→税収自然増→財政改善」の好循環シナリオが実現すれば、積極財政は正当化される。しかし、成長率が期待を下回り、金利上昇による国債費膨張が税収増を上回れば、財政は急速に悪化する。2026年夏の「骨太の方針」で財政目標をどう設定するかが、高市政権の財政運営の試金石となる。
高市積極財政の行方 — 3つのシナリオ
Three Scenarios for Takaichi's Fiscal Policy高市内閣の「責任ある積極財政」は、日本経済にどのような結果をもたらすのか。今後の展開を3つのシナリオで整理する。
【楽観シナリオ:成長と財政の好循環】 17分野への戦略投資がイノベーションを生み、名目GDP成長率が3%以上で推移する。賃上げが5%以上で定着し、税収の自然増が続く。金利上昇は緩やかにとどまり、PB黒字が定着。財政と成長の好循環が実現し、「アベノミクスの財政版」として評価される。
【基本シナリオ:効果は限定的、リスクは管理可能】 成長率は1〜2%にとどまり、戦略投資の効果は中長期的に顕在化。金利上昇で国債費は増加するが、税収増で一定程度相殺される。PBは補正予算込みでは赤字が続くが、危機的な水準には至らない。参院選後に財政規律を強化する「修正路線」に転じる。
【悲観シナリオ:金利上昇の罠】 世界的なインフレ再燃や日銀の急速な利上げにより長期金利が3%を突破。国債費が急膨張し、財政の自由度が大幅に低下する。格下げリスクが顕在化し、市場の信認が揺らぐ。財政再建のための増税(消費税15%など)が不可避となり、政治的にも行き詰まる。
大和総研の神田慶司氏は「高市政権の積極財政が成長力を高めるか、財政リスクを高めるかは、投資の質と金利環境に大きく左右される」と総括する。
高市内閣の積極財政は、日本経済の構造転換を目指す「賭け」の側面を持つ。成功すれば「失われた30年」からの脱却を加速させるが、失敗すれば金利上昇と財政悪化の悪循環に陥るリスクがある。その成否を見極めるには、2026年夏の骨太の方針、7月の参議院選挙、そして秋以降の補正予算の規模が重要な判断材料となるだろう。